農山漁村に泊まる「農泊」の延べ宿泊者数が令和5年度に794万人泊と過去最高を記録し、政府目標を超えた。訪日外国人の取り込みと古民家の活用が次の課題となっている。
京都や富士山のように、人が押し寄せる名所ばかりが日本の旅ではない。田んぼの匂い、川のせせらぎ、夜の深い静けさ。そんな当たり前の田舎の一日を、そのまま宿にしてしまう旅がいま静かに広がっている。農山漁村に泊まる「農泊」だ。派手さはないけれど、数字を追っていくと、この地味な旅が思いのほか大きく育っていることが見えてくる。今日はその現在地を、公表された資料をもとにたどってみたい。
農泊とは何か
農泊とは、農林水産省が旗を振る農山漁村滞在型旅行のことをいう。単に安く泊まる場所という意味ではない。田植えや稲刈り、漁の手伝い、郷土料理づくりといった、その土地の暮らしそのものを体験しながら一晩を過ごす。宿の多くは民宿や古民家であり、迎えるのは地域の人たちだ。観光地を外から眺めるのではなく、暮らしの内側に一歩入る。そこに農泊ならではの手ざわりがある。
コロナ禍からの力強い回復
その広がりは数字にはっきり表れている。農林水産省の資料によれば、農泊地域の年間延べ宿泊者数は、新型コロナ前の令和元年度に約589万人泊まで伸びたが、外国人が占める割合は6パーセントほどにとどまっていた。感染症が広がった令和3年度には448万人泊まで落ち込む。ところが令和5年度には794万人泊まで回復し、これは集計のうえで過去最高の水準にあたる。旅の需要が戻るなかで、田舎に泊まる選択が確かに根づいてきた。
政府が掲げた700万人泊の目標
この794万人泊という数字には、もう一つ意味がある。農林水産省は、令和7年度末までに農泊地域の年間延べ宿泊者数を700万人泊にすることを目標として掲げてきた。つまり令和5年度の時点で、政府が数年先に見据えていた目標をすでに超えてしまったことになる。淘汰と縮小が語られがちな地方にあって、これは数少ない明るい達成といえるだろう。次に問われるのは、量ではなく中身をどう深めるかである。
経済効果は1000億円規模
農泊が注目されるのは、旅そのものの魅力だけが理由ではない。地域に落ちるお金の大きさも見過ごせない。農林水産省の試算では、700万人泊が実現した場合、関連する消費額はおよそ1060億円、そこから生まれる所得創出効果は約420億円に上ると見込まれている。宿泊費だけでなく、食事、土産、体験、交通と、支出は地域のさまざまな場所に広がる。人口の少ない集落にとって、この波及の裾野の広さは大きな支えになる。
カギを握る訪日外国人

もっとも、宿泊者数の全体が伸びても、外国人の割合はまだ低い。かつて6パーセント前後だったこの比率を、農林水産省は10パーセントまで引き上げることを目標にしている。追い風はある。観光庁系の統計では、2025年の外国人延べ宿泊数は1.8億人泊と過去最高の水準に達し、しかも地方部は前年に比べて19.1パーセントも伸びた。都市に偏っていた訪日需要が、少しずつ地方へこぼれ始めている。農泊はその受け皿になり得る。
40地域を重点指定
こうした流れを後押しするため、農林水産省はインバウンドの受け入れに力を入れる地域を重点的に選んでいる。1次の公募で28地域、2次で12地域が加わり、合わせて40地域がインバウンド受入促進重点地域として指定された。全国の農泊地域が621まで広がるなかで、特に外国人客の呼び込みが期待できる場所に資源を集中させる狙いだ。ばらまきではなく、伸びる芽を見極めて育てる。そんな考え方がうかがえる。
古民家という資源
農泊を語るうえで欠かせないのが、各地に眠る古民家の存在だ。使われなくなった空き家や納屋は、放っておけば朽ちていくだけだが、丁寧に改修すれば、そのまま唯一無二の宿になる。太い梁、土間、囲炉裏。都会のホテルでは決して味わえない時間が、そこには残っている。農林水産省も古民家の改修を支援の柱の一つに据えており、朽ちかけた家が旅人を迎える器へと生まれ変わる例が各地で増えている。
受け入れ態勢という壁
とはいえ、田舎に泊まってもらうには乗り越えるべき壁もある。外国人の客を迎えるには、多言語での案内やキャッシュレス決済への対応、和式から洋式へのトイレの改修など、細かな整備が欠かせない。さらに、宿泊と食事を切り離す泊食分離のように、少人数でも無理なく回せる仕組みづくりも課題になる。もてなす心はあっても、態勢が追いつかなければ客足は続かない。地域の負担をどう軽くするかが問われている。
都市集中から地方分散へ
農泊の意義は、混雑する都市の裏返しとしても捉えられる。京都や富士山では、人が集中しすぎるオーバーツーリズムが深刻な悩みになっている。一方で、訪ねる人の少ない農山漁村は、受け入れる余力をまだ十分に残している。都市に集まりすぎた旅人の流れを、少しでも地方へ分散させること。それは名所の混雑を和らげると同時に、疲弊しがちな地域に新しい人の流れを呼び込む、二つの意味を持った処方箋になり得る。
暮らしを体験する旅
旅行者の側から見ても、農泊の魅力ははっきりしている。畑で野菜を収穫し、その場で郷土料理を教わり、縁側で地元の人と他愛のない話に花を咲かせる。名所を足早に巡る旅では得られない、深い満足がそこにある。とりわけ日本の田舎の暮らしに憧れる外国人にとって、こうした体験は何ものにも代えがたい土産になる。写真に収める旅から、記憶に刻む旅へ。農泊はその静かな転換を体現している。
過疎地域の希望
そして農泊は、過疎に悩む地域にとって細くても確かな希望の糸になる。宿を営むことで新しい収入が生まれ、若い担い手が戻るきっかけにもなる。一度訪れた人が再び足を運び、やがてその土地を応援する関係人口へと育っていくこともある。人口そのものを一気に増やすのは難しくても、地域と関わり続ける人を増やすことはできる。農泊は、消えゆく集落をつなぎとめる現実的な一手として期待されている。
田舎に泊まるという選択
794万人泊という数字の向こうには、迎える人の笑顔と、静かな夜の田舎の風景が広がっている。目標を超えた今、農泊に問われているのは、この勢いをどう本物の実りに変えるかだ。訪日客をどう招き、古民家をどう生かし、地域の負担をどう軽くするか。課題は少なくない。それでも、田舎に泊まるという選択が旅の当たり前になっていく先に、日本の観光の新しいかたちがあるのだと、私は思う。

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