自民党の元総裁で、元衆議院議長を務めた河野洋平氏が八日に亡くなりました。八十九歳でした。戦後の日本政治に長く深く関わり、要職を歴任した大物政治家の訃報となります。長い政治家人生の中で、党の枠を超えた行動や歴史に残る談話で知られた人物でした。
河野氏が政界に足を踏み入れたのは一九六七年のことでした。父である一郎氏の後を継ぐ形で旧神奈川三区から出馬し、初当選を果たします。以後、選挙のたびに支持を集め、十四回連続で当選を重ねました。長期にわたって有権者の信任を得続けた、息の長い政治家でした。
自民党の若手だった時代、河野氏は将来を期待される存在でした。その有望さから「プリンス」とも呼ばれ、党の次代を担う政治家の一人と目されていました。早くから注目を集めていたことが、その後の歩みにもつながっていきます。
しかし河野氏は、党にとどまり続ける道を選びませんでした。一九七六年、ロッキード事件などに象徴される金権政治を批判して自民党を離党します。そして新たに新自由クラブを設立し、自らその党首に就きました。既存の政治への問題提起を、行動で示した形でした。
その後、河野氏は自民党に復党します。そして一九九二年には宮沢内閣の官房長官に就任し、政権の中枢を担う立場となりました。この官房長官時代に、河野氏は歴史に残る談話を世に送り出すことになります。
それが、いわゆる河野談話です。第二次世界大戦中のいわゆる従軍慰安婦について、旧日本軍の関与を認め、お詫びと反省を表明したものでした。この談話を発表したのち、衆議院選挙で自民党は初めて野党に転落します。その混乱のさなか、河野氏は第十六代の自民党総裁に就任しました。
晩年も河野氏は政治の表舞台に立ち続けました。二〇〇二年には生体肝移植の手術を受け、その際は長男の河野太郎議員がドナーを務めています。二〇〇三年からは第七十一代の衆議院議長に就任し、二〇〇九年の衆議院解散までの二千二十九日間にわたって在任しました。これは当時としては歴代最長の在任期間でした。
