戦後日本を代表する政治思想史家・丸山真男氏が遺した原爆写真14枚が原爆資料館に寄贈され、公開が始まりました。写真の出自と歴史的意義を、一次資料の視点から読み解きます。
1945年8月6日の朝、広島市宇品町の陸軍船舶司令部で丸山真男は整列していた。参謀の訓示が途切れた瞬間、視界を覆うような閃光が走り、爆心地から南東へ約4.6キロ離れたその地点では、空気が一変した。戦後、日本の政治思想を最も深く規定した人物の一人が、その日、一介の一等兵として現場にいたという事実は、単なる歴史の脚色ではない。本人が録音テープに残した約2時間にわたる証言は、隣室にいた報道班員たちと並んで、目の前で展開した惨状を鮮やかに描き出している。
その証言に紐付く14枚の写真が、ついに広島市の原爆資料館へ寄贈された。2026年10月1日から始まった新着資料展で、初めて一般公開されるこれらのプリントは、原爆投下3日後から撮影されたものだという。戦後を代表する思想家が、自らの体験した地獄を記録した資料を、死後も持ち続けたという背景には、記録の重みと、それを誰に託すかという倫理的な葛藤があったはずだ。
宇品凱旋館で見た光景
丸山氏は1945年3月の臨時召集により、東京帝国大学助教授の身分を捨て、二等兵として広島に配属された。当初は暗号教育隊にいたが、翌4月には司令部参謀部情報班へ転属し、米英中など連合国の情報収集にも関わるようになる。7月1日付で一等兵に昇進した頃、兄宛のはがきには「新兵なき古兵殿になったわけです」と書かれていた。この言葉は、戦場における役割の曖昧さと、個人のアイデンティティの剥落を暗示している。
8月6日の朝、鉄筋3階建ての宇品凱旋館の前では、情報班員約10人と報道班員約5人が隣り合って整列していた。丸山氏の証言によれば、参謀の訓示を聞いている最中に「目がくらむほどの閃光」が走ったという。その後、傷つき逃げてきた市民が「三々五々入ってきた」と語り、広場は瞬く間に負傷者で埋め尽くされた。海辺まで広がった広場が、見る間に人々の姿でいっぱいになったという描写は、原爆の瞬間的破壊力と、その後の救助の遅れを如実に示している。

写真の出自と撮影者
14枚の写真は、大本営調査団が広島へ入った翌9日、報道班長の酒井四郎中尉から丸山氏に手渡されたものだとされる。酒井氏は「報道班として撮った写真ですから、一緒に行ったからくれたんだと思うんですけれどね」と丸山氏は語っている。しかし、船舶司令部参謀部写真班だった川原四儀氏が後に「撮影したのは私です」と名乗り出ている。川原氏は、前年の1968年に自身と同僚が撮った手製の写真帳を市役所で公開し、ネガは軍命で終戦時に焼却したり土に埋めたりしたことを明かしていた。
今回の14枚も「川原四儀撮影」とされ、うち6枚は広島を8月13日朝に飛び立った大本営参謀が携えた報告資料にあるのと同じカットだと確認されている。さらに宮内公文書館所蔵の「昭和二十年八月六日広島市戦災記録写真帖」の45枚と照らすと、11枚は同じ構図のものだった。これらの写真は、単なる個人の思い出ではなく、軍の公式調査や皇室の閲覧にまで使用された公的な記録であったことが、その歴史的価値を高めている。

記録の倫理と継承
丸山氏は9月12日に召集解除され、復員した。広島への再訪は32年後の1回だけであり、被爆者健康手帳は最期まで取得しなかった。長男の彰さん(80歳)は「丸山真男が残した写真を多くの人たちに見てもらい、考えてほしい」と寄贈の意図を語っている。この言葉には、個人の体験を公共の記憶へと転換させることの難しさと、その必要性が込められている。
写真のネガは戦時中に処分されたため、現存するのは焼かれたネガからプリントされたものや、提出用に焼かれたプリントのみである。この「一回限り」の記録が、70年以上の時を経て再び光を浴びることは、記憶の脆さと強さを同時に示している。丸山氏は思想家として知られているが、この14枚の写真は、彼が歴史の現場に立ち、その重みを実感していたことを証明する、無言の証人なのである。

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