青空にそびえる天守は、日本の歴史を象徴する存在です。しかし、江戸時代以前に建てられた天守が今も残る城は、全国にわずか十二しかありません。戦乱の世に花開いた城づくりの技から、多くの城が失われた理由、そして守り伝えられた名城までをたどります。
青くはれわたった空に向かって、幾重にも重なる屋根を従えながら堂々とそびえ立つ天守の姿は、まさに日本の歴史そのものを象徴する風景だといえるでしょう。しかし、私たちが当たり前のように思い描くその立派な天守が、実は全国にごくわずかしか残されていないことは、意外と知られていません。
戦乱の世が生んだ天守
城そのものの歴史はたいへん古いものですが、幾重もの屋根を持つあの壮麗な天守を備えた城が本格的に発達したのは、戦乱の絶えなかった戦国時代から安土桃山時代にかけてのことでした。織田信長が築いた安土城が、本格的な天守を備えた最初期の城のひとつだとされています。
城の形そのものもまた、長い時代の移り変わりとともに大きく姿を変えていきました。はじめのうちは、険しい山の上に築かれた守りやすい山城が主流でしたが、やがて世の中が少しずつ安定に向かうにつれて、小高い丘の上に築く平山城や、広い平地に堀をめぐらせた平城へと、その中心を移していったのです。
天守は、敵の攻撃に備えるための軍事的な拠点であると同時に、その城を治める城主の強大な権威を内外に広く示すための、いわば象徴としての役割も強く担っていました。天高くそびえ立つその堂々たる姿には、自らの力を誇示しようとする戦国の武将たちの、並々ならぬ思いが込められていたのです。
城を守る工夫の数々

堅固な城を築き上げるために、当時の人々は実にさまざまな工夫を凝らしました。頑丈に積み上げられた石垣や、幾重にもめぐらされた深い堀、そして曲輪と呼ばれる区画を巧みに配置した縄張りは、いずれも敵の侵入を少しでも防ぐための知恵の結晶にほかなりません。反り返るように積まれた石垣の美しい曲線には、機能と美とが見事に同居しています。
こうした城のまわりには、武士や商人、そして職人たちが暮らす城下町が大きく広がっていきました。城を中心にして政治や経済がまわり、多くの人と物が集まったこれらの城下町の多くは、そのまま現代の私たちが暮らす都市の礎となって、今日まで脈々と受け継がれています。城の名を今に伝える地名も、各地に数多く残されています。
激減した天守
織田信長の時代よりのち、全国にはおよそ百七十もの天守が次々と築かれたと伝えられています。ところが、江戸時代に入って出された一国一城令による取り壊しや、たび重なる天災などによって、その数は時代とともに少しずつ減らされていくことになりました。華やかに天守がそびえ立った時代は、思いのほか短いものだったのです。
とりわけ大きな痛手となったのが、明治時代に入ってから出された廃城令です。これによって数多くの城が天守を失い、第二次世界大戦の前まで残っていた二十ほどの天守も、戦時中の空襲や火災によってそのうちの八つを焼失し、ついに現在の十二城のみとなってしまいました。
いまに残る十二の天守
こうして江戸時代以前の姿を今にとどめる貴重な天守は、全国でわずか十二城を数えるのみとなり、これらは「現存十二天守」と呼ばれています。そのうち松本城、犬山城、彦根城、姫路城、松江城という五つの城の天守は国宝に指定され、残る七城も重要文化財として大切に守られています。
これら現存する貴重な天守のなかでも、五重もの壮大な姿を誇るのは、実は松本城と姫路城のわずか二つだけです。とりわけ姫路城は、その白く輝くように美しい姿から白鷺城とも呼ばれて親しまれ、日本を代表する名城として世界遺産にも登録されています。国内外から訪れる人々を、今もなお静かに魅了し続けているのです。
受け継がれてきた城
今に残る城の多くは、決して当たり前のように生きのびてきたわけではありません。あの姫路城でさえ、かつては廃城の危機に瀕したことがありましたが、取り壊しを惜しんだ地元の市民たちによる熱心な保存運動のおかげで、その美しい姿がかろうじて守られたと伝えられています。
私たちが何気なく見上げている一基の天守の向こうには、数百年におよぶ激動の歴史と、それを守り伝えようとした数え切れない人々の思いが、静かに積み重ねられています。次に城を訪ねる機会があれば、ぜひその石垣にそっと触れ、遠い時代に思いをはせてみてはいかがでしょうか。
歴史についての良い記事です.

Keep following 渡辺 美咲Her next filing reaches you the moment it publishes, on her own subdomain.
Follow